意識すらしない「前提」。「周りの人と違う」から「恥ずかしい」について

20200730_01
何度かSNS等で書いたことあるけど、ウチは
 
息子達を高校に行かせる予定が無い
 
 
 
「え?!行かせないの?!なんで?!」
 
って聞かれることが良くある。
 
ボクはそこには、多くの人が持つ #前提 があると思っている。
 
表面上は、 #当たり前 とか #常識 とか #一般的に とかいう言葉が良く使われる。
 
殆どの人は、そのことに気付いてすらいない。
 
そして、その背後には、多くの場合、不安・恐れが隠れているように思う。
 
(ちなみにウチは「行かせない」訳じゃなくて「行きたいなら自力でご自由に」だけどね)
 
 
 
昨日、実家の野尻町に行った際に、その話で両親と、ちょっと戦り(やり)あっちゃった・・・。
 
普段からボクの考えは折に触れて伝えていたつもりだったんだけどね。
 
ものの見事に、全く伝わってなかった f(^_^;
 
 
両親は、
「今は 99.9% の人が高校に行く。だから高校は義務教育みたいなもんだ。」
という。
 
要するに、動機としては “周りの人が行くから” ってことだ。
 
その時、“その行動の中身・意味合い” は、議論の土俵にすら上がらない。
 
ボクは、大事なのは中身だと思うから、どんな前提があろうと、まずは考える。
 
深く、深ぁ~く、考える。
 
※ ちなみに高校に関しては、ボクは既に真剣に考えて、かなり前に “完全に不要” (もっと言うと小学4年生以降は不要)という結論に達している。ここで言う “不要” は、無価値という意味じゃない。あくまでもボクにとっては必要ないという、それだけの意味。
 
 
ボクとしては、今回も 大事な中身の方の話 をしたかった。
 
でも、話の中身に辿り着く前に、 “前提” という鉄壁の防御が立ちはだかるのです。
 
前提 の持ち主は、相手の話を聞いているようで、実は殆ど聞いていない。
 
 
ボクはその背後には、不安と恐怖が潜んでいるんだと思う。
 
周りの人の行動から外れるという不安・恐怖(日本人は顕著)。
 
 
ついでにボクの母が、カミさんに
「高校に行かないのは #恥ずかしい よ?」
と言ったらしい。
 
・・・。
 
「確かに・・・」って思う人も多いんだろな~。
 
 
でも、それがどういうことなのか、皆ちゃんと考えてますかね?
 
一回、ちゃんと考えてみよう!
 
 
※ ちなみにカミさんは 「いや、恥ずかしくは無いですよ?」 と返してくれたらしく、それを後で聞いたボクは、泣き出しそうなくらい嬉しかった!(´;ω;`)
 
 
帰宅後、子供たちともいろいろ話した。
 
“恥ずかしい” って、何?
 
自分にとって、恥ずかしいって、どんな時?
 
 
子供たちからは、残念ながら
“周りの人と違うこと”
ってことが、出てきちゃった。
 
まあ、その反応自体がマズいって訳じゃない。
 
ボクだって昔は、散々そういう感情を抱いたし、それに素直に反応したことも数えきれない。
 
 
でも、それでも、ちゃんと考えてみた時に、どうだろう? って話。
 
 
皆さんはどうですか?
 
 
子供たちと話しながら、ボクにとっての “恥ずかしい” を再考しました。
 
ボクにとって “恥ずかしいこと” は、

  • 悪いと分かっていてそれをすること
  • 人を騙したり嘘をついたりして、欲を満たそうとすること

 
でした。
 
そういう、その人なりの 恥ずかしい は、人によって違っていいと思う。
 
深く自分に向き合って考えた答えでありさえすれば。
 
 
“周りの人と違うこと” が恥ずかしいのは、人が集団生活を行うようになって生まれた、防衛反応のようなものかもしれない。
周りと合わせることによって、生存確率が上がり、外れることで、それが下がった。
 
 
ただ、その感覚がいつでもどこでも正しいとは限らない。
 
赤信号は、皆で渡っても危険でっせ。
 
 
あなたにとって、 “本当の意味で恥ずかしいこと” って、なんですか?
 
 
#なるべくお金を使わない生活
#思考停止しない
 

坂元 修一(シュウ)
坂元 修一(シュウ)
なるべくお金を使わない生活を実践中

令和2年7月現在は田んぼに夢中である

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